日々沢山のニュースがあふれています。次から次に発生する災害や事件・事故に対して、報道もだんだんと少なくなっていきます。受け止める側の関心も「時間とともに風化」してしまいます。先日このことを実感することがありました。仕事で久々に都外へ出ました。東海道新幹線こだまで静岡県に向かいました。久しぶりに列車に乗り、車窓からの風景をしみじみ眺めて時間を過ごしました。
帰宅するとテレビで熱海の土砂崩れの現場の行政の過去の対応が報道されていました。そう、私は数時間前に大災害が起こった現地を通ってきたのです。しかし私はすっかり忘れてしまっていました。未だ1名の方が行方不明のままであり、沢山の人が住むところを失ったまま生活されている場所を通り過ぎてきたのです。当事者に方は、まだまだ辛い思いをしながら生活されていることでしょう。
私の中では「災害について風化」してしまっていたのです。土砂崩れが起きてからひと月位経ったころに、被災者の方達の状況が報道され「テレビで取り上げられる時間も少なくなってきた。みんなの記憶から忘れられてしまわないようにしたい」と話されていたのを思い出しました。その場を訪れながら、事故を全く思い出さなかったことが自分でショックでした。被災された方の情報に心を痛めたつもりでしたが、あっさり忘れている自分に落胆しました。当事者に心寄せる。ということ、自分ごととして受け止めることは難しいものだと痛感しました。
コロナ禍についても、感染した方、大切な方を亡くされた方、そして感染の危険性に直面しながらも治療にあたってくださった方。けして収束なんかしていないのですよね。「心よせること」「忘れない事」にはそれぞれの形があると思います。今一度、自分はどのように関わっていくのか、考え直していこうと思います。
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